ベムのコラムの最近のブログ記事
読売ADレポート「OJO(オッホ)」の今月号の山本直人さんのコラム「マーケティングの新レシピ」の内容に触発されて、テレビに関するエントリーをひとつ。
博報堂DYメディアパートナーズさんの「メディア定点調査2010」のデータから、テレビの接触時間が特に女性層で増えていること、地上波デジタル放送の利用経験率が、2006年にはまだ17.0%に過ぎなかったものが、2009年に57.1%、2010年には73.8%とここに来て急速に伸びていることから、大型画面、デジタル高画質、BSデジタルでの多チャンネル化が、視聴時間を伸ばしているとしている。
実際、ブラウン管から、液晶やプラズマの大型画面とデジタル高精細画像によって、テレビ視聴の価値はかなり上がったのではないかと考える向きもある。またBSデジタルを中心にミドルゾーンの視聴量のコンテンツでも高画質で観られるチャンスが増えた。
全体としてはテレビメディアにとって非常によい環境になってきた訳だ。このところの広告需要の悪化や、インターネットに押されて守勢一辺倒だった感はぬぐえないが、そろそろ王者の復権の時期かもしれない。
しかし、その復権の仕方は、従来どおりの広告枠の需要がまた高くなるというような単純なことではないだろう。おそらく需要はミドルエンドな領域で拡大するのではないだろうか。BSデジタルをはじめとする多チャンネル化のなかで、コアな視聴者に比較的じっくり訴求したい広告主ニーズに合った、番組コンテンツや長尺CM、ネットのソーシャルメディアと連動の効いた仕掛けと仕組みが、試されるのだと思う。云ってみれば、ネットやモバイルと対等な関係になれるテレビこそが、テレビの復調を支えることになるのだと思う。
地上波の「とにかく短期に世帯視聴率を獲らないといけない縛りの中での番組企画編成」、15秒CMフォーマットでしかほとんど訴求できない枠組み、とはちょっと違う比較的フレキシブルなBSデジタルあたりから、テレビの新しい使い方が発見できるという感覚をもつ。
逆に、地上波の方は今後視聴率の価値をどう測るかが課題になるだろう。広告主によって評価軸は変わってくるだろうが、1%はどんな視聴も同じ価値とする量り売りには馴染まない視聴の質を大事にする広告主が確実に増える。テレビ出稿のネットへのサウンドの仕方(響き方)をつぶさにトラッキングすると、視聴の質は見えてくるはずだ。
また、番組の作り手が、どれだけ本当の視聴者主導のマインドを獲得できるかがテーマだ。タイムシフトなんてのは当たり前だ。従来の送り手の上から目線を完全に脱却した番組制作者がテレビを変えるだろう。
ブランドメッセージをプッシュする力として、これからも他の追随を許さないテレビ。この力を本当にうまく利用するのは、デジタル、ソーシャルメディアの知見を持ち、トリプルメディア構造を上手に使う広告主に限定されるかもしれない。そのときの真の番組プロデューサーはおそらく広告主自身でなければならない。
ベムがインターネットを始めたのは確か93年ごろで、伊藤穣一君に勧められて、当時彼が日本の代表をしていた最初のインターネットプロバイダーPSInetの会員になった。そのころはまだ、ブラウザというものはなく、カメレオンというインターネットキットには、メール、ニューズグループ、ゴーファーといったソフトがあった。私はニューズグループで、ネット上にあるmidiファイルを収集しては、ライブラリーをつくったりしていた。
私のコンピュータとの出会いは、学生のころのフォートランで、言語間の「距離と方向」を多変量解析をかけてプロットするのに使っていたと記憶している。その後、入社した広告会社でSORD(ソード)という会社を担当していたため、漢字PIPSと呼ばれた、今でいうと表計算ソフトを使って、TVスポットのスケジュール表なんかをつくっていた。(今でも某広告会社のスケジュール表フォーマットは私がつくった大手ビール会社さん用である。)このころ私の会社が三浦海岸で市民マラソンイベントの運営をしていて、3000人からのランナーが走るなか、その日のうちに順位とタイムが印字された賞状を渡すことができる仕組みを、ソードのPIPSを使って実施していた。入社直前のアルバイト時代から何年か携わったのだが、当時今のヤフー井上社長もSORDの技術者としてこのイベントに関わっていらした。以前井上さんと会食した折に、その話をしたら、「海岸で一生懸命バグ直しをいたんで、顔を合わせていたんでしょうね。」という話になった。
その後、MS-DOSの時代になって、日本にはなかったプレゼンテーションソフト「ハーバードグラフィックス」(スライドショーが格好良くて)を使いたくて、DOS-V機を買ってしまった。回りはNECの98が全盛期のころで、みんな98で企画書を書いていた。当時ラオックスコンピュータ館の4Fが全フロアソフト売り場だったが、9割が98ソフトでマックが棚4~5くらい、DOS-Vは棚半分もなかった。世界中に何万本もソフトがあるからという文句に騙された。
そうしているうちに、インターネットに出会う。実はパソコン通信をしないで、インターネットを始めた。非常に稀有な例のPC体験ではないかと思う。
そして、今年iPadを手にして、思うことがある。私の30年に及ぶコンピュータとのつき合いは、実に試行錯誤と苦労の連続で、基本誰もしっかり体系的に教えてくれないし、せっかく誰よりも早く始めても、機能を使いこなすのは皆後から始めた若い人たちだし・・・という具合。結局本当のところはパソコンに馴染めない。結局いろんなことを強いられる訳で、使っているのか、使われているのか分からない何か化け物のような存在だ。
しかしiPadはどうだろう。途中でボタン押して閉じちゃえば、イライラしないし、ユーザーインターフェイスがここまで使う側にフレンドリーなのは初めてだ。今年80歳の私の母は今、私があげたiPadで「文字が読みやすい」と文庫シリーズを読んでいる。また子供たちに持たせると、本当に楽しく使いこなすようだ。
今、私のiPadはベッドに転がっていることが多い。仕事にも使うが、寝る前にYoutubeでロックギタリストの演奏を観ることが多い。
この夏は、irigというiPhoneやiPadをアンプとエフェクター代わりにしてギターが演奏できるツールが発売されるので、予約して今から使うのを楽しみにしている。
インターネットはパソコンに繋がって始まった。今は携帯電話に繋がっていて、もうじきテレビに繋がる。今後は冷蔵庫や楽器や住宅そのものに繋がるだろうし、ウエラブルなもの(たとえば時計やメガネ)にも繋がるだろう。私は日本経済を画期的に再興させる技術はウエラブルな自動翻訳(通訳)機ではないか(ツールの力で日本人がみんな英語でコミュニケーションがとれる状況)と思っている。
パソコンはその汎用性のために、ユーザーにとって中途半端にブラックボックスなもので、ある程度はプログラムやHTMLみたいな言語に精通する方がより活用できた。テレビはどうして動画が映るか全く理解する必要はないが、iPadはほぼそんなツールだ。
理系でもないし、技術者でもない私のPCと向き合う歴史は、今年から劇的に変わるような気がする。とにかくすごくいい事だ。
自分の親を弔いもせずに、死んだことも役所に届けない。もらえる年金が貰えなくなるからという悲しい理由と、こういうことさえ面倒になってしまう無気力。今世紀になってからの日本で露呈し出した社会の「だらしなさ」(社会保険庁なんかに象徴される)にひどく滅入る思いをしている人は多いだろう。そしてひとつ間違えば、あまり他人事でない感覚も共有しているかもしれない。
いろんな見方があるだろうが、基本はやはり「社会の箍が外れてしまっている」としかいいようがない。みな自由や個人主義を求めてきて、「うっとうしい」と感じていたものがなくなることの代償は大きいようだ。「長寿国のデータは嘘かもしれない。」「子供が虐待されていても押し入ることもできないで命を守れない。」という情けない状況はその一端に過ぎない。「社会の箍が緩む」ことで、噴出してきたものは、思いがけない現象である。
それは日本人の精神面に大きな影響を与えているように思う。潜在的に持っている病症が、箍が緩むことで病気となり、障害となって多くの人を蝕むようになる。もちろん昔もそういうことはあったし、表面化していなかったと言えば、そういう面も少なからずあるだろうが、潜在的にあっても「箍がかかっている間」は発病しなかったのだと思う。
この高齢化、少子化、急速なメンタリティの変化は、人間の個体それぞれのDNAにプログラムされているように、ひとつの民族にもこうしたことが起きているようだ。
民族の繁栄に対して、衰退期には「民族のタナトス」のようなものが働くのかもしれない。しかし、日本のそれはあまりにも急速で対応が難しい。
日本人は、一回もっと枯れてしまった方がよいのかもしれない。そのほうが病気の進行も少し緩慢になって、ゆっくり打開策がとれる。または、元気をよその国から分けて貰うかだ。いろんな意味で移民政策が「肝」になってくる時代が迫っている。
今、「ラテンに学ぶ幸せな生き方」という本を読んでいる。「幸福」はあくまで主観である。人と比較しない生き方や価値観は、学ぶことが多い。
なくした「社会の箍」は、おそらくもう元には戻らない。とはいえ千何百年もの文化的歴史の延長にある日本人の持っている精神性があるのだから、それを土台に新しい価値観による新しいモラルを構築するしかない。
今回の参議院選挙でも、また1票の格差は拡がった。「民主党惨敗」とメディアは報じるが、実際には「1人区で惨敗」で、議席数と得票数は比例しない。
最大5倍に拡がったこの格差は、到底容認できるものではない。しかしこれについてメディアはほとんど報じようとしない。
たしかに都市部と地方の格差は問題である。しかし、1票の価値でその格差を埋めようというのはあり得ない。
普通の感覚では、格差は2倍以上あってはいけない。5倍なんていうのはとんでもないことで、これを放置する日本には本質的に民主主義が根付いているとは思えない。特にメディアがこれを報じないのは、根本的に地方の議員数偏重を容認したいのではないかと疑いたくなる。
政界にも議員数削減が議論されることが多くなったが、(これこそポピュリズムの極み)それが1票の格差を是正するためだという意見を聞いたことがない。
都市部の投票率が低い原因のひとつには、自分たちの1票の価値が低いことにも起因しているようにも思う。
選挙が終わったあとの「総括」として、このタイミングで1票の価値について検証しないのでは、ずっと改善されない。ここは、裁判所は思い切って、「無効」の判決を出して、まじめに是正させることを促す必要があるのではないか。
参議院選挙によって、与党は参議院では過半数割れをおこし、衆議院でも3分の2まで達しないという本格的な「ねじれ」となった。
こうした結果をもって、「国民はこうした状況を選択した」ということを言うテレビ解説者がいる。視聴者イコール選挙民(国民)だとして、実に国民におもねった「言い方」である。選挙結果をまるで「神の見えざる手」のごとく、高尚なる国民の「意志」と言いたいのだろうが、本当にそうだろうか。
実際には比例代表の投票数は民主党の方が200数十万票多い。地方の一人区で大きく負けたとはいえ、全体の得票数では自民党の上をいっている状況を、「与野党しっかり話し合ってやりなさい」という国民の声の表れだというのは、どうにもへんちくりんな考えだ。
少なくとも、良識ある国民は、今の政治状況が、国策においてスピーディに手を打つことが出来ているとは全く思っていない。官製不況を招いた法律改正(悪)も多く、修正すること、より改革を進めなければならないことばかりだ。
ふたつの考え方があって、間をとって、足して2で割る政策が、良い結果を得るとは考えにくい。それより、しっかりした理念をもった政策の手を徹底してスピーディに打って、ダメなら次の手を打つことの方が、前進する。
こうなったら、民主、自民の大連立もありだと思うが、(民主と社民が連立するより、まだ理念は共有できるはず)、こうした政局によって、やるべき政策の手を打てず後手後手に回っている状況を、「国民の選択」と言っているメディアはアンポンタンだ。
競争社会である今は、日本は各国と競争している。社内でもめてばかりいてしっかり手をうてないので、競合会社に差をつけられている(昔業界1位になりかけたが今は凋落している)会社である。
こんな状況、国民は期待などしていない。
AISASモデルや、パーチェスファネルの考え方をもとに、「3つのメディアをどう機能させるのか」を考えてみると良いと思う。例えば、AISASのAにはP、O、Eのどのメディアを主に機能させていくか・・・という発想だ。
おそらく、商品カテゴリーやブランドごとに違ってくるはずで、企業が持ってるブランドごとに、または今後開発したいブランドでの、3つのメディアの機能のさせ方を考えて、ブランドの集合としての企業トータルでは、どんなリソースを構築することが最も効果的かつ効率的かを考えるのが、企業単位での「トリプルメディア戦略」といえる。
「ブランド認知」をソーシャルメディアの機能として託すやり方もある訳で、必ずしも、AISASの2つのSだけがソーシャルメディアの役割とは限らないし、認知だからペイド広告だと決め付ける必要もない。
大企業で、長年コストをかけて、コミュニケーション資産を蓄えてきたブランドは、ただでさえ既に認知され関心の対象になりやすいのだから、ソーシャルメディアでの話題の対象になりやすい。コミュニケーション資産の大きいブランドこそ、ソーシャルメディアを活用しないと「もったいない」とも云える。ただ、それは何かソーシャルメディアに発信するというこばかりではなく、「ひたすら聴く」ということもソーシャルメディアを活用したマーケティングである。「聴く」ために「ちょっとした静かな投げかけ」をして、「聴き取る」ことも手法だろう。この辺は今後もっと鍛えられていくであろうスキルだ。
ひとつ大切なのは、3つのメディアはマーケティングの時間軸が違うことだ。自社メディアや、ソーシャルメディアは、従来の広告キャンペーンより中長期で育てる必要があって、もしかすると単年度予算管理では難しいマーケティングメディアだ。3つを連携させるには、そのぞれの扱い方の違いをしっかり認識することだろう。
ベムがやっている「社内研修」(毎週実施)を、ツイッターで時々ご希望が来るので、Uストリームで流してみました。映像・音声が切れちゃう人がいたり、まだまだ難しい面もありますが、こればっかりはやってみないと分からないので・・・。
ちょうど、カメラが数台あって切り替えられたり、PC画面そのものを流せる状況にあったので、講演をストリーミングするには、比較的良い環境でした。
手元にiPadを置いて、ハッシュタグに寄せられる質問に、数問お答えしましたが、Uストリームの画面だと、ツイートがどんどん送られてしまうので、ツイッターアプリから、ハッシュタグのみを追っかけていたほうが正解でした。
そもそも、ipadで見ても、フラッシュストリーミングなので、Ustの映像は見れないので・・・。
次回はもっと、手際良くやりましょう!
デジタル人材の育成は、オープンにやって、代わりに教えてもらうことも多いはず。出来るだけ公開の機会は増やそうと思います。
博報堂さんの「デジタルスクール」でも、出向いてもいいですよ。
最近、SGOというワードをよく聴くようになった。特にfacebookのPVがgoogleのクエリーを超えたの超えないのっていう話から、検索の最適化じゃなくて、ソーシャルメディアでの最適化なんだという議論のようだ。
しかし、「AISAS」でいうと、Sはふたつあるので、どっちも最適化が必要ってことではないかと思うが、検索だけなく情報との遭遇にソーシャルメディアが活躍する状況は自分自身でも強く体感する。で、このブログでも何回かSMO(ソーシャルメディアオプティマイゼーション)の概念を紹介しているが、SMOとSGOは何が違うのか、社内で議論してみた。どうもそもそもSMOという概念はあまり普及せず、ソーシャルグラフといういい方で、伝播力のあるキーマン(つまりキーワードからキーマンみたいなパラダイムシフトっぽく語りたいのかな・・・。)、つまり人にフォーカスが当たる感じになっている。
CGMといわれていたけど、UGCと言い換えられたりするのと似ている感じ。(これはメディアじゃなくて本質はコンテンツみたいに・・・。)
SGOの概念をもっと活用できるものにするためには、ソーシャルテクノグラフのようなユーザー分析をもって、特定のブランドのターゲットに最適化されたキャンペーンを設計するということがあると思う。
例えば、ソーシャルメディアを活用したキャンペーンの仕掛けを設計するとして、そのブランドのターゲットにとって「動画を撮ってアップロードして送ってください」みたいな施策がリテラシー的に無理があるということも考えられる。何でもかんでもソーシャルメディアさえ使えばいいってもんじゃない。
そもそものところで云うと、フォロワーの多い人にRTさせることで伝播力の最適化を図るのも重要な要素だし、その信頼性の担保の仕方とか、おそらく凄く奥深いんだと思う。
もちろん従来の広告キャンペーン的な即効性、短期間で打ち上げ花火型は本来ソーシャルメディアの得意とするところではない。せっかく広告キャンペーンをやるなら、中長期のソーシャルメディア活用もプログラムして、コミュニケーション資産を蓄えていくのが、これからのマーケティングかもしれない。
マーケティングサイドにとってSGOの目指すところは、まさにこれから定義されていく話だと思う。
「トリプルメディアマーケティング」が本日発売されました。よろしくお願いします。
今では、サッカーの試合での各選手の走破距離データや、動きの軌跡、トップスピードの測定など、様々なデータを取ることができるようになった。カメルーン戦では遠藤が一番、二番が本田とそれぞれ1試合で11キロ前後走破している。もちろん質の問題もあるが、まずは走り勝たないと、フィジカルに差がある日本選手に勝機は乏しい。
企業のマーケティング活動をWeb解析ツールなどを中核に、ダッシュボード化して最適化を測る「ダッシュボード戦略」を標榜し、かつサッカーの名門清水東高校が母校のベムとしては、サッカー競技におけるデータマイニングにはたいへん興味を覚える。
さて、スポーツに関わるデータが実はこんなに取れるということを、7~8年前に知った。それはデータスタジアム社との出会いで、最初に見せてもらったのは今「データストライカー」というサービスになっているものだったと思う。実際の映像からデータを起こし、そのデータに意味づけして可視化するという手順だと思うが、最近は特定選手の動きをすべて自動的に(カメラ画像やレーザーセンサーを使っているらしい)トラッキングできる技術がどんどん出てきている。
ベムの友人のサッカーの専門家の後藤さんの言だと、日本チームはまだ全然走ってないのだそうだ。つまり、味方がボールを奪って速攻をかけようという時に、誰も全速力で走ってないらしい。ここぞという時のゴール前にラッシュする迫力が足りないのだ。これは1試合で何キロ走ったからというデータに出てこない。
また氏いわく、「もっと斜めに長い距離を走ればもっとチャンスはひろがる。例えば阿部が奪ったら、長谷部が右外へ、松井が中へ斜めに走る。右の一番外を駒野が駆け上がる。」と例を上げた。ただ「運動能力で劣る日本は、早いパス交換にシフトした。これが効果を発揮してアジアでは勝てるようになった。でもこのやり方は選手のプレーエリアを限定する方向に向かう。だから斜めに走るとチームのバランスが崩れて、ディフェンスができなくなる。」と指摘している。
オシムの「考えて走るサッカー」は、もうひとつ上に行くためのサッカーだったかもしれないが、今に至っては分からずじまいだ。
データから読み取れるのは、「現象」だが、それを知って「じゃあどうするか」を判断するために「ダッシュボード」はある。飛行機の操縦といっしょだ。サッカー競技のデータはたしかにひとりひとりの走破距離と軌跡は分かるが、お互いの連動性や瞬時のスピードアップがどのくらいできているかを局面で抽出する必要がある。これをするには、まずプレーの質や戦略に対する知見があって、分析シナリオがあるから一部のデータにフォーカスでき、そこで初めても見えてくるものがある。
マーケティング活動も、広告コミュニケーション全般の知見がないと、こういう仮説立てができない。私が云うところの「広告コミュニケーションの理解がある人が、アクセス解析ツールを必死で勉強するから新しいスキル(価値)が創出される」というのはそういうことである。

