2010年6月アーカイブ

「トリプルメディアマーケティング」が本日発売されました。よろしくお願いします。

https://www.adk-i.jp/3media/

 今では、サッカーの試合での各選手の走破距離データや、動きの軌跡、トップスピードの測定など、様々なデータを取ることができるようになった。カメルーン戦では遠藤が一番、二番が本田とそれぞれ1試合で11キロ前後走破している。もちろん質の問題もあるが、まずは走り勝たないと、フィジカルに差がある日本選手に勝機は乏しい。
企業のマーケティング活動をWeb解析ツールなどを中核に、ダッシュボード化して最適化を測る「ダッシュボード戦略」を標榜し、かつサッカーの名門清水東高校が母校のベムとしては、サッカー競技におけるデータマイニングにはたいへん興味を覚える。
 さて、スポーツに関わるデータが実はこんなに取れるということを、7~8年前に知った。それはデータスタジアム社との出会いで、最初に見せてもらったのは今「データストライカー」というサービスになっているものだったと思う。実際の映像からデータを起こし、そのデータに意味づけして可視化するという手順だと思うが、最近は特定選手の動きをすべて自動的に(カメラ画像やレーザーセンサーを使っているらしい)トラッキングできる技術がどんどん出てきている。
 ベムの友人のサッカーの専門家の後藤さんの言だと、日本チームはまだ全然走ってないのだそうだ。つまり、味方がボールを奪って速攻をかけようという時に、誰も全速力で走ってないらしい。ここぞという時のゴール前にラッシュする迫力が足りないのだ。これは1試合で何キロ走ったからというデータに出てこない。
 また氏いわく、「もっと斜めに長い距離を走ればもっとチャンスはひろがる。例えば阿部が奪ったら、長谷部が右外へ、松井が中へ斜めに走る。右の一番外を駒野が駆け上がる。」と例を上げた。ただ「運動能力で劣る日本は、早いパス交換にシフトした。これが効果を発揮してアジアでは勝てるようになった。でもこのやり方は選手のプレーエリアを限定する方向に向かう。だから斜めに走るとチームのバランスが崩れて、ディフェンスができなくなる。」と指摘している。
 オシムの「考えて走るサッカー」は、もうひとつ上に行くためのサッカーだったかもしれないが、今に至っては分からずじまいだ。

 データから読み取れるのは、「現象」だが、それを知って「じゃあどうするか」を判断するために「ダッシュボード」はある。飛行機の操縦といっしょだ。サッカー競技のデータはたしかにひとりひとりの走破距離と軌跡は分かるが、お互いの連動性や瞬時のスピードアップがどのくらいできているかを局面で抽出する必要がある。これをするには、まずプレーの質や戦略に対する知見があって、分析シナリオがあるから一部のデータにフォーカスでき、そこで初めても見えてくるものがある。
 マーケティング活動も、広告コミュニケーション全般の知見がないと、こういう仮説立てができない。私が云うところの「広告コミュニケーションの理解がある人が、アクセス解析ツールを必死で勉強するから新しいスキル(価値)が創出される」というのはそういうことである。

 今朝、サンデーモーニングをちらっと観ていると、天野祐吉氏がビデオで登場し、日本の首相がコロコロ代わることを端的に「マスコミのせいでしょう。批判ばかりで批評しない。」とさすがに批評のプロらしく語った。これを受けて番組のコメンテーターたちは誰も自分たちの番組を反省するということがない。わざわざこんなVを流してなお、このテーマすら他人ごとのようにコメントするずうずうしさはいったい何なのだろう。

 権力には必ず牽制勢力が存在して、その機能を果たさなければならない。司法、立法、行政の3権はもちろん、メディアの権力に対してもそうである。
 一方、業界では、「3すくみならぬ、5すくみ」の構造があると云われていた。いわく「広告屋は広告主企業に頭が上がらず、企業は役所に頭が上がらず、役所は政治家に頭があがらず、政治家はメディアを畏れ、メディアは広告会社に頭が上がらない。」 ただこれは日本ではとてもこうなっているとは思えない。とてもじゃないが、広告会社がメディアの牽制勢力になっているなんてことはまるでない。(敢えて云えば電通さんくらいだが、一定の影響力はあっても牽制などしていない・・・)誰にも頭が上がらないのが広告屋だ。

 では誰がマスメディアという権力の牽制勢力となるのだろうか。
その答えは、やはり「視聴者であり、読者である」国民、市民である。そしてその発言を支えるのはまぎれもなく「ソーシャルメディア」である。
 ソーシャルメディアの社会的意義のひとつは、大手マスコミの牽制勢力たることであると云える。特に国民共有の財産である電波の、特に経済性の高い周波数帯をもらって免許事業をするテレビ局は、民間会社とはいえ、高い参入障壁で守られているのだから、大きな社会的責任を負う。
 そもそも民放の電波であるVHS帯域は、もっとも経済性の高い周波数帯域だ。ここを民放中心に振り分けたのはGHQの意志だ。占領軍は、「大本営発表」のような悪しきメディア統制を嫌い、民間放送に最もおいしい帯域を分け与えた。
 
 結果、権力の牽制勢力であるマスメディアの意義を高めるあまり、批判しか機能しなくなっていった。批判ではなく批評をして、是々非々で、良いものは評価して育てようとする気持ちがない。まあ批判に徹する方が簡単、単純だからだ。それもある意味仕方ない面もある。変に一部の政治勢力を賛美し始めたらコトだ。


 テレビに出ると、その場の論調に迎合させられる力が働くのか、よっぽど見識をしっかり持った人でないと、自分の独自の意見をしっかり言える人は少ない。
マスメディア特にテレビに登場するコメンテーターが、何故強迫観念に駆られたように、批判合戦になってしまうのだろうか。その場のムードに贖えないのはどうしてか。見識があっても、いったん批判的な論調で進むと、良いことは良いということや、そうした批判論調そのものに対する自省をコメントするのはたいへん難しいようだ。その意味でも、そもそも見識などないタレントがコメンテーターで出てくるに至っては、論外である。政治的な、国民の共通の利益に適うことかどうかというようなまじめな話を、しかも全国放送、1000万人単位で観ているような番組で、しょうもないタレントに平気でコメントさせるテレビの見識のなさに、視聴者は実は相当うんざりしている。ただ多くの人はサイレントだ。いちいち文句をつけるほど暇ではなく、テレビをそれほど重要だとは、もはや思っていない。

 もちろんソーシャルメディアの世界は玉石混交である。自分の意見のない人も多い。しかしここにはマスメディアでは出会えない素晴らしい見識もある。うまく使って、世の中にはマスメディア以外にも良い考え方や物事の捉え方があることを知るのは、たいへん良いことだ。そしてマスメディアに対しては、単純な批判ではなく批評になる。当然だが多くのコメンテーターがいるからだ。評価する人もいっぱいいる。
 
こうしたことと同時にソーシャルメディアによって、今議論するべきことは何かを吸い上げて多くの人の話題とすることが重要だ。マスメディアの力はその論調に影響されるということもあるが、それ以前に「今重要なことはコレ!」とテーマを規定してしまう力だ。マスコミで話題になっていることを受けて反応するだけなく、マスコミは取り上げないが、これは「重要なテーマだ」とソーシャルメディア環境から、議論が渦を巻いて盛り上がってきてこそ、自らのメディアとしての真価を発揮するのであろう。

 鳩山首相の辞任を報道するメディアはどこかウキウキしているようにも見える。また、あれだけ「辞めろ」という論調をつくっておいて、「辞めるのは責任を果たしていない。」とまたしても批判を流してみせる。
 この国の不毛の本当のところは何だろうか。まずは鳩山氏のような確かに首相の資質には欠ける人材しか登場しないこと。ただしこれを「誰がやっても同じ」と切り捨てる議論は全くの間違いだ。必ずやり切れる人材はいるはずで、また国民がやりきれるように支援しなくてはできない。首相たる人材を育てることができないのは、その国の国民の責任でしかない。にもかかわらず、マスメディアは、理屈のたった批判だけではなく、理屈のない非難を繰り返す。自分に意見を持たない国民は(もちろんしっかりとした見識をもっている人はたくさんいる。)メディアの論調に流される。
 マスメディアの一番のパワー、権力は、「今はこのテーマが一番重大なこと」と話題を指定してしまう力である。そして、特にテレビは文字に残らないので、否定的なムードをつくるという手法で、本当は自分の意見をもたない人たちにいかにも「自分の意見」をもったかのように思わせる。
 さて、何故メディアはこうも「否定すること」に夢中になるのだろうか。

そういえば、従来こんなに毎週のように世論調査をして政権支持率など発表していただろうか。マスメディアはどこか、ソーシャルメディアなどの台頭による自らの地盤沈下に潜在意識に大きな不安感を抱いているのだと思う。そして、それが故に必要以上にマスメディアの力の誇示をしようとしているのではないかと思う。
 もちろん実際に鳩山首相のやってきたことが批判の対象にならないとは全く思わない。しかし論調は非難一辺倒で、その結果「ほら、支持率落ちたでしょ。」という、メディアが世論を動かしているぞと誇示したい、ないしはそれで自己の力を確認したいという思いがあるのだろう。おそらくはあまり意識的ではないのだろうが、こうしたことが「否定すること」に夢中になる要因のような気がする。

 もうひとつは今の日本人に鬱屈した「もやもや」があって、他人を誹謗することでその「憂さ」を晴らしたいとの意識が根底にあることだ。マスメディアのこうした行動様式は日本人全体の気分を表しているのであって、私がこうしてマスメディアに批判的なのも含め、お互い「悪口」ばっかり言っている国になっちゃったというのが本質かもしれない。

 権力に対して批判勢力がしっかりしていることはたいへん重要だ。だが自省は全くせずに他人を攻撃することばかりに夢中になる社会が健全である訳がない。


月別 アーカイブ