テレビメディアの自覚

 このところの政局に関するテレビメディアの論調には少しうんざりするものがある。
いわく「政治が軽くなった。云々・・・」。芸能人が司会をして、どう考えてもテレビで何百万人を前にして披瀝する見識があるとは思えないタレントをコメンテーターにして、政治を題材に批評してみせるのだが、そうしたことが政治を軽くしている行為そのものであることに気づいてさえいない。
 テレビメディアで論評を加える場合、新聞の記名記事と違って、批判っぽいことを言う、批判的なニュアンスでものを言う、など基本的に見識をもった意見自体がないのに、とりあえず批判的な印象を与えるだけということがあまりに多い。
 ほとんどの視聴者は、こうしたテレビの手法に少なからず眉をひそめているところがあるはずだ。ところがテレビの送り手には、こうしたサイレントマジョリティの見方が理解できていないようだ。昔はテレビでの発言に電話でクレームしてくるということがたくさんあった。それだけ真剣にテレビを観ていたことの裏返しだ。しかし今はテレビの手法にうんざりしていても、別に文句を言うほどことでもない。テレビはまあその程度のものになっているのだ。
 情報量が爆発的に拡大したことで、情報の取得者の取得態度は、基本的にこういう態度だ。ネットへの接触体験が多くなってくると、いちいち自分の指向に合わないものに反応していたら際限ないので、自分にとって良好なものを選択的に取得するようになる。
 こうしたメディアの受容態度の変化を、よくよく最大の大衆メディアは理解しないといけない。番組の編成権は今や視聴者にあり、○曜日の○時に必ずテレビの前に座らせようというある種の「送り手の思い上がり」から早く脱却することである。

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