今回の参議院選挙でも、また1票の格差は拡がった。「民主党惨敗」とメディアは報じるが、実際には「1人区で惨敗」で、議席数と得票数は比例しない。
最大5倍に拡がったこの格差は、到底容認できるものではない。しかしこれについてメディアはほとんど報じようとしない。
たしかに都市部と地方の格差は問題である。しかし、1票の価値でその格差を埋めようというのはあり得ない。
普通の感覚では、格差は2倍以上あってはいけない。5倍なんていうのはとんでもないことで、これを放置する日本には本質的に民主主義が根付いているとは思えない。特にメディアがこれを報じないのは、根本的に地方の議員数偏重を容認したいのではないかと疑いたくなる。
政界にも議員数削減が議論されることが多くなったが、(これこそポピュリズムの極み)それが1票の格差を是正するためだという意見を聞いたことがない。
都市部の投票率が低い原因のひとつには、自分たちの1票の価値が低いことにも起因しているようにも思う。
選挙が終わったあとの「総括」として、このタイミングで1票の価値について検証しないのでは、ずっと改善されない。ここは、裁判所は思い切って、「無効」の判決を出して、まじめに是正させることを促す必要があるのではないか。
民主党が社民、国民新党と連立したが故に、実に基本政策の方向性そのものが歪んでしまったのは、この10ヶ月間くらいのゴタツキでよく分かった。選挙用のよく考えていないマニュフェストと理念の違う連立の「ダブルパンチ」で、借金だけは確実に増えた。
昨年の政権交代時に、これで半年から1年近く混乱は続くだろうと思っていたが、これほどとは想像できなかった。
そもそも政党単位で、選挙による獲得議席をもとに多数党の政策が、約束されたように実行され、ダメならまた政権交代という、ごく自然なメカニズムをようやく手に入れたかに思ったが、そうは行かなかったようだ。多数党がないといこと(しかも参議院・・・本当に要るのか?)は、常に「足して2で割る政策」を強いられる。この時代に、ひとつの理念を元に、徹底した政策をスピーディに手を打つことが一番求められるのに・・・。
政治家をただただこき下ろすメディアといい、所詮その国の民度、国民のレベルでしか政治状況はつくれないのかと無力感すら漂うが、こればかりはあきらめる訳にはいかない。この国際競争社会で、気を抜いている間などない。こうしている間に日本も日本国民も経済的だけでなく大きな損失を被っている。
実は得票数では負けていない民主党が、1人区でぼろ負けしたということは、またしても1票の格差はひどかったことを意味している。景気が悪くなってから、ますます都会と地方の格差は指摘されてきたが、こんな形で格差を埋めているのは正常ではない。選挙結果を単純得票数だけで見れば、国民の意志は違うところにあるのではないかと思える。
一方で、世論調査での消費税に対する容認の度合いも、6割を超える国民が仕方ないとしている。こんなに多くの国民が税を容認する民主国家はまずない。それだけ、大人になっているところがある。(実は高い民度がある)にもかかわらず、マスメディアの世論調査のアウトプットの仕方は、実に程度が低い。小沢が好きとか嫌いとかいう極めてレベルの低いものだ。
何か施策を打って、その結果が評価されて、支持率が上下するのは理解できる、しかし、菅さんの発言がぶれただ何だということが、そんなに支持に影響するとしたら、いったいその国民の政治意識はどの程度のものなのだろうか。まだ何にもやっていない人の評価なんかできる訳がない。菅さんに代わっただけで、V字回復するのも全く意味が分からないし、選挙演説で消費税の還付云々で発言がブレたと云って、また大幅に下がるのも、ばかばかしい。良識ある国民は、メディアが発表する世論調査ほど「我々はバカじゃない。」と思っているはずだ。ただ良識や知性に乏しく、メディアの雰囲気に流されるままの人も多いのも事実。考えが浅く、実は自分の意見そのものはない人たちが影響する世論調査結果に政治全体が方向を見失うのは、極めて不幸だ。
参議院選挙によって、与党は参議院では過半数割れをおこし、衆議院でも3分の2まで達しないという本格的な「ねじれ」となった。
こうした結果をもって、「国民はこうした状況を選択した」ということを言うテレビ解説者がいる。視聴者イコール選挙民(国民)だとして、実に国民におもねった「言い方」である。選挙結果をまるで「神の見えざる手」のごとく、高尚なる国民の「意志」と言いたいのだろうが、本当にそうだろうか。
実際には比例代表の投票数は民主党の方が200数十万票多い。地方の一人区で大きく負けたとはいえ、全体の得票数では自民党の上をいっている状況を、「与野党しっかり話し合ってやりなさい」という国民の声の表れだというのは、どうにもへんちくりんな考えだ。
少なくとも、良識ある国民は、今の政治状況が、国策においてスピーディに手を打つことが出来ているとは全く思っていない。官製不況を招いた法律改正(悪)も多く、修正すること、より改革を進めなければならないことばかりだ。
ふたつの考え方があって、間をとって、足して2で割る政策が、良い結果を得るとは考えにくい。それより、しっかりした理念をもった政策の手を徹底してスピーディに打って、ダメなら次の手を打つことの方が、前進する。
こうなったら、民主、自民の大連立もありだと思うが、(民主と社民が連立するより、まだ理念は共有できるはず)、こうした政局によって、やるべき政策の手を打てず後手後手に回っている状況を、「国民の選択」と言っているメディアはアンポンタンだ。
競争社会である今は、日本は各国と競争している。社内でもめてばかりいてしっかり手をうてないので、競合会社に差をつけられている(昔業界1位になりかけたが今は凋落している)会社である。
こんな状況、国民は期待などしていない。
AISASモデルや、パーチェスファネルの考え方をもとに、「3つのメディアをどう機能させるのか」を考えてみると良いと思う。例えば、AISASのAにはP、O、Eのどのメディアを主に機能させていくか・・・という発想だ。
おそらく、商品カテゴリーやブランドごとに違ってくるはずで、企業が持ってるブランドごとに、または今後開発したいブランドでの、3つのメディアの機能のさせ方を考えて、ブランドの集合としての企業トータルでは、どんなリソースを構築することが最も効果的かつ効率的かを考えるのが、企業単位での「トリプルメディア戦略」といえる。
「ブランド認知」をソーシャルメディアの機能として託すやり方もある訳で、必ずしも、AISASの2つのSだけがソーシャルメディアの役割とは限らないし、認知だからペイド広告だと決め付ける必要もない。
大企業で、長年コストをかけて、コミュニケーション資産を蓄えてきたブランドは、ただでさえ既に認知され関心の対象になりやすいのだから、ソーシャルメディアでの話題の対象になりやすい。コミュニケーション資産の大きいブランドこそ、ソーシャルメディアを活用しないと「もったいない」とも云える。ただ、それは何かソーシャルメディアに発信するというこばかりではなく、「ひたすら聴く」ということもソーシャルメディアを活用したマーケティングである。「聴く」ために「ちょっとした静かな投げかけ」をして、「聴き取る」ことも手法だろう。この辺は今後もっと鍛えられていくであろうスキルだ。
ひとつ大切なのは、3つのメディアはマーケティングの時間軸が違うことだ。自社メディアや、ソーシャルメディアは、従来の広告キャンペーンより中長期で育てる必要があって、もしかすると単年度予算管理では難しいマーケティングメディアだ。3つを連携させるには、そのぞれの扱い方の違いをしっかり認識することだろう。
ベムがやっている「社内研修」(毎週実施)を、ツイッターで時々ご希望が来るので、Uストリームで流してみました。映像・音声が切れちゃう人がいたり、まだまだ難しい面もありますが、こればっかりはやってみないと分からないので・・・。
ちょうど、カメラが数台あって切り替えられたり、PC画面そのものを流せる状況にあったので、講演をストリーミングするには、比較的良い環境でした。
手元にiPadを置いて、ハッシュタグに寄せられる質問に、数問お答えしましたが、Uストリームの画面だと、ツイートがどんどん送られてしまうので、ツイッターアプリから、ハッシュタグのみを追っかけていたほうが正解でした。
そもそも、ipadで見ても、フラッシュストリーミングなので、Ustの映像は見れないので・・・。
次回はもっと、手際良くやりましょう!
デジタル人材の育成は、オープンにやって、代わりに教えてもらうことも多いはず。出来るだけ公開の機会は増やそうと思います。
博報堂さんの「デジタルスクール」でも、出向いてもいいですよ。
最近、SGOというワードをよく聴くようになった。特にfacebookのPVがgoogleのクエリーを超えたの超えないのっていう話から、検索の最適化じゃなくて、ソーシャルメディアでの最適化なんだという議論のようだ。
しかし、「AISAS」でいうと、Sはふたつあるので、どっちも最適化が必要ってことではないかと思うが、検索だけなく情報との遭遇にソーシャルメディアが活躍する状況は自分自身でも強く体感する。で、このブログでも何回かSMO(ソーシャルメディアオプティマイゼーション)の概念を紹介しているが、SMOとSGOは何が違うのか、社内で議論してみた。どうもそもそもSMOという概念はあまり普及せず、ソーシャルグラフといういい方で、伝播力のあるキーマン(つまりキーワードからキーマンみたいなパラダイムシフトっぽく語りたいのかな・・・。)、つまり人にフォーカスが当たる感じになっている。
CGMといわれていたけど、UGCと言い換えられたりするのと似ている感じ。(これはメディアじゃなくて本質はコンテンツみたいに・・・。)
SGOの概念をもっと活用できるものにするためには、ソーシャルテクノグラフのようなユーザー分析をもって、特定のブランドのターゲットに最適化されたキャンペーンを設計するということがあると思う。
例えば、ソーシャルメディアを活用したキャンペーンの仕掛けを設計するとして、そのブランドのターゲットにとって「動画を撮ってアップロードして送ってください」みたいな施策がリテラシー的に無理があるということも考えられる。何でもかんでもソーシャルメディアさえ使えばいいってもんじゃない。
そもそものところで云うと、フォロワーの多い人にRTさせることで伝播力の最適化を図るのも重要な要素だし、その信頼性の担保の仕方とか、おそらく凄く奥深いんだと思う。
もちろん従来の広告キャンペーン的な即効性、短期間で打ち上げ花火型は本来ソーシャルメディアの得意とするところではない。せっかく広告キャンペーンをやるなら、中長期のソーシャルメディア活用もプログラムして、コミュニケーション資産を蓄えていくのが、これからのマーケティングかもしれない。
マーケティングサイドにとってSGOの目指すところは、まさにこれから定義されていく話だと思う。
「トリプルメディアマーケティング」が本日発売されました。よろしくお願いします。
今では、サッカーの試合での各選手の走破距離データや、動きの軌跡、トップスピードの測定など、様々なデータを取ることができるようになった。カメルーン戦では遠藤が一番、二番が本田とそれぞれ1試合で11キロ前後走破している。もちろん質の問題もあるが、まずは走り勝たないと、フィジカルに差がある日本選手に勝機は乏しい。
企業のマーケティング活動をWeb解析ツールなどを中核に、ダッシュボード化して最適化を測る「ダッシュボード戦略」を標榜し、かつサッカーの名門清水東高校が母校のベムとしては、サッカー競技におけるデータマイニングにはたいへん興味を覚える。
さて、スポーツに関わるデータが実はこんなに取れるということを、7~8年前に知った。それはデータスタジアム社との出会いで、最初に見せてもらったのは今「データストライカー」というサービスになっているものだったと思う。実際の映像からデータを起こし、そのデータに意味づけして可視化するという手順だと思うが、最近は特定選手の動きをすべて自動的に(カメラ画像やレーザーセンサーを使っているらしい)トラッキングできる技術がどんどん出てきている。
ベムの友人のサッカーの専門家の後藤さんの言だと、日本チームはまだ全然走ってないのだそうだ。つまり、味方がボールを奪って速攻をかけようという時に、誰も全速力で走ってないらしい。ここぞという時のゴール前にラッシュする迫力が足りないのだ。これは1試合で何キロ走ったからというデータに出てこない。
また氏いわく、「もっと斜めに長い距離を走ればもっとチャンスはひろがる。例えば阿部が奪ったら、長谷部が右外へ、松井が中へ斜めに走る。右の一番外を駒野が駆け上がる。」と例を上げた。ただ「運動能力で劣る日本は、早いパス交換にシフトした。これが効果を発揮してアジアでは勝てるようになった。でもこのやり方は選手のプレーエリアを限定する方向に向かう。だから斜めに走るとチームのバランスが崩れて、ディフェンスができなくなる。」と指摘している。
オシムの「考えて走るサッカー」は、もうひとつ上に行くためのサッカーだったかもしれないが、今に至っては分からずじまいだ。
データから読み取れるのは、「現象」だが、それを知って「じゃあどうするか」を判断するために「ダッシュボード」はある。飛行機の操縦といっしょだ。サッカー競技のデータはたしかにひとりひとりの走破距離と軌跡は分かるが、お互いの連動性や瞬時のスピードアップがどのくらいできているかを局面で抽出する必要がある。これをするには、まずプレーの質や戦略に対する知見があって、分析シナリオがあるから一部のデータにフォーカスでき、そこで初めても見えてくるものがある。
マーケティング活動も、広告コミュニケーション全般の知見がないと、こういう仮説立てができない。私が云うところの「広告コミュニケーションの理解がある人が、アクセス解析ツールを必死で勉強するから新しいスキル(価値)が創出される」というのはそういうことである。
今朝、サンデーモーニングをちらっと観ていると、天野祐吉氏がビデオで登場し、日本の首相がコロコロ代わることを端的に「マスコミのせいでしょう。批判ばかりで批評しない。」とさすがに批評のプロらしく語った。これを受けて番組のコメンテーターたちは誰も自分たちの番組を反省するということがない。わざわざこんなVを流してなお、このテーマすら他人ごとのようにコメントするずうずうしさはいったい何なのだろう。
権力には必ず牽制勢力が存在して、その機能を果たさなければならない。司法、立法、行政の3権はもちろん、メディアの権力に対してもそうである。
一方、業界では、「3すくみならぬ、5すくみ」の構造があると云われていた。いわく「広告屋は広告主企業に頭が上がらず、企業は役所に頭が上がらず、役所は政治家に頭があがらず、政治家はメディアを畏れ、メディアは広告会社に頭が上がらない。」 ただこれは日本ではとてもこうなっているとは思えない。とてもじゃないが、広告会社がメディアの牽制勢力になっているなんてことはまるでない。(敢えて云えば電通さんくらいだが、一定の影響力はあっても牽制などしていない・・・)誰にも頭が上がらないのが広告屋だ。
では誰がマスメディアという権力の牽制勢力となるのだろうか。
その答えは、やはり「視聴者であり、読者である」国民、市民である。そしてその発言を支えるのはまぎれもなく「ソーシャルメディア」である。
ソーシャルメディアの社会的意義のひとつは、大手マスコミの牽制勢力たることであると云える。特に国民共有の財産である電波の、特に経済性の高い周波数帯をもらって免許事業をするテレビ局は、民間会社とはいえ、高い参入障壁で守られているのだから、大きな社会的責任を負う。
そもそも民放の電波であるVHS帯域は、もっとも経済性の高い周波数帯域だ。ここを民放中心に振り分けたのはGHQの意志だ。占領軍は、「大本営発表」のような悪しきメディア統制を嫌い、民間放送に最もおいしい帯域を分け与えた。
結果、権力の牽制勢力であるマスメディアの意義を高めるあまり、批判しか機能しなくなっていった。批判ではなく批評をして、是々非々で、良いものは評価して育てようとする気持ちがない。まあ批判に徹する方が簡単、単純だからだ。それもある意味仕方ない面もある。変に一部の政治勢力を賛美し始めたらコトだ。
テレビに出ると、その場の論調に迎合させられる力が働くのか、よっぽど見識をしっかり持った人でないと、自分の独自の意見をしっかり言える人は少ない。
マスメディア特にテレビに登場するコメンテーターが、何故強迫観念に駆られたように、批判合戦になってしまうのだろうか。その場のムードに贖えないのはどうしてか。見識があっても、いったん批判的な論調で進むと、良いことは良いということや、そうした批判論調そのものに対する自省をコメントするのはたいへん難しいようだ。その意味でも、そもそも見識などないタレントがコメンテーターで出てくるに至っては、論外である。政治的な、国民の共通の利益に適うことかどうかというようなまじめな話を、しかも全国放送、1000万人単位で観ているような番組で、しょうもないタレントに平気でコメントさせるテレビの見識のなさに、視聴者は実は相当うんざりしている。ただ多くの人はサイレントだ。いちいち文句をつけるほど暇ではなく、テレビをそれほど重要だとは、もはや思っていない。
もちろんソーシャルメディアの世界は玉石混交である。自分の意見のない人も多い。しかしここにはマスメディアでは出会えない素晴らしい見識もある。うまく使って、世の中にはマスメディア以外にも良い考え方や物事の捉え方があることを知るのは、たいへん良いことだ。そしてマスメディアに対しては、単純な批判ではなく批評になる。当然だが多くのコメンテーターがいるからだ。評価する人もいっぱいいる。
こうしたことと同時にソーシャルメディアによって、今議論するべきことは何かを吸い上げて多くの人の話題とすることが重要だ。マスメディアの力はその論調に影響されるということもあるが、それ以前に「今重要なことはコレ!」とテーマを規定してしまう力だ。マスコミで話題になっていることを受けて反応するだけなく、マスコミは取り上げないが、これは「重要なテーマだ」とソーシャルメディア環境から、議論が渦を巻いて盛り上がってきてこそ、自らのメディアとしての真価を発揮するのであろう。
鳩山首相の辞任を報道するメディアはどこかウキウキしているようにも見える。また、あれだけ「辞めろ」という論調をつくっておいて、「辞めるのは責任を果たしていない。」とまたしても批判を流してみせる。
この国の不毛の本当のところは何だろうか。まずは鳩山氏のような確かに首相の資質には欠ける人材しか登場しないこと。ただしこれを「誰がやっても同じ」と切り捨てる議論は全くの間違いだ。必ずやり切れる人材はいるはずで、また国民がやりきれるように支援しなくてはできない。首相たる人材を育てることができないのは、その国の国民の責任でしかない。にもかかわらず、マスメディアは、理屈のたった批判だけではなく、理屈のない非難を繰り返す。自分に意見を持たない国民は(もちろんしっかりとした見識をもっている人はたくさんいる。)メディアの論調に流される。
マスメディアの一番のパワー、権力は、「今はこのテーマが一番重大なこと」と話題を指定してしまう力である。そして、特にテレビは文字に残らないので、否定的なムードをつくるという手法で、本当は自分の意見をもたない人たちにいかにも「自分の意見」をもったかのように思わせる。
さて、何故メディアはこうも「否定すること」に夢中になるのだろうか。
そういえば、従来こんなに毎週のように世論調査をして政権支持率など発表していただろうか。マスメディアはどこか、ソーシャルメディアなどの台頭による自らの地盤沈下に潜在意識に大きな不安感を抱いているのだと思う。そして、それが故に必要以上にマスメディアの力の誇示をしようとしているのではないかと思う。
もちろん実際に鳩山首相のやってきたことが批判の対象にならないとは全く思わない。しかし論調は非難一辺倒で、その結果「ほら、支持率落ちたでしょ。」という、メディアが世論を動かしているぞと誇示したい、ないしはそれで自己の力を確認したいという思いがあるのだろう。おそらくはあまり意識的ではないのだろうが、こうしたことが「否定すること」に夢中になる要因のような気がする。
もうひとつは今の日本人に鬱屈した「もやもや」があって、他人を誹謗することでその「憂さ」を晴らしたいとの意識が根底にあることだ。マスメディアのこうした行動様式は日本人全体の気分を表しているのであって、私がこうしてマスメディアに批判的なのも含め、お互い「悪口」ばっかり言っている国になっちゃったというのが本質かもしれない。
権力に対して批判勢力がしっかりしていることはたいへん重要だ。だが自省は全くせずに他人を攻撃することばかりに夢中になる社会が健全である訳がない。





